7 月 26 日 話題提供 Abさん
日本では現代にいたるまで、貝を食べてきた歴史がある。しかし、貝塚を残したのは、ほぼ縄文時代だけだ。なぜ縄文人は貝塚を作ったのだろう。
貝が豊富な地域で、人々が食べた貝殻を他のごみと共に長期間廃棄した結果貝塚になった、というのが「常識」だろう。この「常識」は千葉市の大貝塚の一部などでは妥当だろう。
しかし私が関わってきた霞ヶ浦沿岸の貝塚では必ずしも妥当とは言えず、「謎」が多い。 最大の謎は、大規模な斜面貝塚があっても、多数の住居址が付近に見つからないことである。
さらに貝層の中身を精査すると、食物残滓をそのまま廃棄したとは見えない例が多い。貝殻しかない貝塚、鹿猪の骨は多いのに頭の部分は皆無の貝塚、魚骨がまとまって出る貝塚などがあり、縄文人は残滓を分別して、扱いを変えていると思える。
美浦村の大谷貝塚の場合、貝層の中を掘りこんで墓を作ったり、なぜか人の大腿骨の一部を埋めていたり。犬の埋葬もしている。陸平貝塚では、貝層内に炉を作り、アカニシを回りに敷いたり、貝化石と生痕化石を並べたりしていた。
貝塚が単なるゴミ捨て場だったとは考えにくい。 縄文人はすべてのものに魂が宿るとするアニミズムだったと考えられている。
アイヌ民族は、有用なものはすべて神の世界から与えられたものと考え、使用後は神の世界に「土産」つきで「送り場」で「送り」返したという。戸別に設けた「送り場」と共同の「送り場」があり、儀礼も多様という。
霞ヶ浦沿岸の貝塚には、いろいろな規模のものがあるが、大規模なものは、共同の「送り場」だったと考えられる。そこに人々が一時期滞在し、協働で漁、猟なども行い、食材の処理、道具の素材の分配も行い、ときには葬儀もしていたのではないだろうか。
縄文時代前期の人たちは、大谷貝塚に、現在鹿島灘名物のチョウセンハマグリをかなり持ち込んでいた。湾外まで採りに行っていたと思われる。また、人々は島の丘の上にあった美浦村陸平貝塚に通い、数千年間に全国有数の大規模な貝塚を作り上げた。
霞ヶ浦沿岸地域の人たちは日常的に舟を用い遊動性の高い暮らしをしていたのではないだろうか。 時間をかけて、大量の貝や骨を 1 点ずつ同定し、計測し、記録し、記録を整理し、この地の縄文人の暮らしを時期ごとに解明しようと努めてきたが、次々と新しい謎がうまれてくる。ーーーだから貝塚は面白い!
Abさん(五斗蒔9月号から)
感想
誰の声で聞くよりも、信用できて楽しい A さんのお話でした。
貝塚を計画的に掘り進める。夥しい出土品を丁寧に分類する。きれいに洗い上げる。分類された個々の繋がりがハッキリ分かるように関連付ける。何時か発表する日に備え大切に保管する。気骨の折れる、忍耐力の要る数十年の仕事の内容をメモして持ち帰りました。
翌朝あらためて、私は一人で考古資料館を訪ねました。開館を待って真っ直ぐメインの展示場に入り、初めての訪問者の目で見学して廻りました。かつてない深い感動を体感することが出来ました。
貝塚の謎に近づく道は二つある。一つはAさんと同じ努力を惜しまず知的アプローチで理解を進め、派生する謎も愛おしみハグして前進する(生きる)道。
二つ目は貝塚や出土品を生み出した縄文人の営みを全身で追体験しながら、現代人と共鳴可能なsynchronize)領域を確かめ「一緒じゃ一緒じゃ」と探求していく道です。共鳴できない謎の領域も生じます。二本の道は縄文人と現代人が互いに理解・共鳴できる楽しい第三の道を切り開くものと考えます。
Ehaさん(老人の夢 83 歳)